なぜベイマックスが面白くなかったか、あるいは僕がディズニーに期待したもの
訓練された俳優 ― 『 ピエールとリュース 』
『ヒトの化石』制作ルール (ver1.0)
これまでの反省をもとに、『ヒトの化石』制作にあたって、
以下のようなルールを設けます。
・ひとりから始めること
・制作過程を公開すること
・逆算しないこと
ルールその1
□ひとりから始めること
僕はいま、ひとりです。
劇団に所属するわけでもない人間が、ひとりで考えはじめてから、
どんなふうに人と繋がって、作品ができるのか、あるいはできないのか、
それを確かめるために、ここから始めます。
ルールその2
□制作過程を公開すること
僕はいま、ひとりです。
でも、ひとりでは作品をつくれません。
これからひとと繋がって作品をつくっていくために、
できる限り、その制作過程を公開していきます。
ルールその3
□逆算しないこと
僕はいま、ひとりです。
公演の中身をつくっていく人間は、僕しかいません。
だから、僕が焦らなくてもいいように、締め切りは設けません。
型枠の隙間を埋めていくのではなくて、
カタチはいびつでも、欠片を押し固めて作品をつくるためです。
(2014年11月6日現在。随時更新予定)
『ヒトの化石』制作宣言
『ヒトの化石』という作品をつくります。
マイムを中心として、セリフに頼らない舞台作品にする予定です。
僕が消え
遠い未来で
化石になったら
ひとは僕に何をみるだろう
分析して
名をつけて
解読をしても
愛した人は僕しか知らない
藍坊主の「星のすみか」という歌の歌詞です。
でも、本当に、そうか?
誰を愛したか、化石からは本当に分からないのか?
どうにかして、ヒトはその思いを化石にできないのか?
ヒトが化石になって残した思いは、どんなふうに解読されるのか?
そういう着想から出発します。
化石にもいろいろあって、例えば足跡だって立派な化石です。
ある恐竜は、その奇妙な足跡以外に手掛かりとなる化石が発見されませんでした。
学者は足跡”だけ"からその全体像を推測し、キテレツな復元図をいろいろこしらえました。
でも研究していくうちに、その指の形、跡の深さ、歩幅なんかから、
恐竜の重心がわかるようになりました。
そうやってこしらえた復元図は、のちに発見された骨の化石とぴったり一致したそうです。
恐竜だってこれくらいのことがわかる。
じゃあ、ヒトだったら?
ということで、これから、作品を形にしていきます。
昨日はキノケート美術館、でした!
なんだかんだでブログの更新も久しぶりです。
記事を見返すと、語調がまったく統一されてないのがすごい恥ずかしい。
ですます調で統一していこうと思います。以後。
昨日、6月29日の日曜日は、キノケート美術館でした!
ちなみにキノケート美術館というのは西部講堂で行われたイベントの名前です。
こちらの公式HPでは、
「西部講堂を中心とした関西中規模ロックコンサートの創造」と書いてあります。
僕は、中西秀樹さんという方の演奏にのっかって
10分間ほどマイムをしました(ちなみにその曲が↓コチラ↓)。
やる内容を曲を聴きながら考えて、あらかじめマイムの筋立てを決めておき、
当日にスタジオで3回ほど合わせていただいて、本番となりました。
中西さんの演奏手法は、演奏しながら音を録音してループさせ、
新しい音をどんどん積み重ねて曲にするというものです。
曲の構成は決まっているものの、そのときの感覚で音の重なり方が変わります。
自分も、やるたびにマイムの内容が整理されて変わっていくような感じだったので、
終わりの部分がきちんと合うか不安だったのですが、
本番ではかなり気持ちよくハメることができました。
約半年前にマイムの練習を始めてから、人前で演じる機会はこれで3回目。
一番気持ちよくやれました。
メインは音楽だし、気負いなくやれた分集中できたのかもしれません。
内容は、マイムとしてはかなり「あるある」な感じでした。
疲れた青年が子供に風船をもらって、
なんとなく膨らませてみると風船が空に向かって浮かび始め、
風船に引っ張られて青年は春夏秋冬いろんなところに連れて行かれて、
子供に戻って楽しく遊んでいたが、
結局最後は目が覚めて気怠い現実に帰るという。
初めて人前で見せたマイム公演ではアンケートに
「いかんせんスタンダード」と書かれ、シナリオ的には全く成長しておりません。
でも4月から通い始めたマイムラボ・セカンドでの稽古の甲斐あって、
演じ方、見せ方についての意識はずいぶん成長したかなあという実感がありました。
重心を動かすこと、リズム、出来事の整理、などなど。あともちろん技術的にも。
次の予定もうれしいことに決まっております。
10月に大阪で行われる「ザ・マイムアワー」というイベントです。
マイム好きが集まってオムニバス形式で作品を上演します。
先週顔合わせがあったのですが、東京に研修に行っていたため参加しそこねました。
ブログにアップされている楽しそうな顔合わせ写真なんかをみると
完全に出遅れた感があります。
でも。
がんばります。
豚の本
僕が所属する部署の事務室は、大学附属の図書館のなかにある。
昼休みにふらっと覗いて本を借りてこられるので、大変結構な立地であります。
そこでこないだ、「思考する豚」という本を借りた。
これはとにかく豚の本で、生物的、社会的、宗教的、文学的と、あらゆる側面から「豚」について掘り返している。
いろんな種類の豚が紹介されていて、馬みたいにスラっとした豚もいたり、怪物みたいなサイズのやつもいたりするということで、「ハッシュパピー 〜バスタブ島の少女〜」に出てきたオーロックスを思い出した。オーロックスって牛らしいけど、映画のはどうみても豚だった。ていうか、もののけ姫に出てくるイノシシ神みたいな感じのやつだけど。
文系なので理系的な話は適当に読み飛ばし、文学的に豚を扱った章を読む。そこで取り上げられる作品が、なぜかことごとく読んだことがあるので驚いた。
G.オーウェルの「動物農場」、ゴールディングの「蠅の王」は当然としても、ロアルド・ダールの「豚」、果てはP.G.ウッドハウスの「ブランディングス城の女王(エンプレス)」まで。
実際これらの話はどれも大変面白く、そのなかで豚が代替不可能な地位を占めていることは間違いない。
では、どうして「豚だけが」そこまで独特の意味を持つのか?
それも当然本の中で言及されているわけで、要するに
・豚はダントツで頭がいいから
・(=豚は人間に似ているから)
・豚は食われるから
ということになる。身も蓋もない。
でも実際、豚の特殊さを確認するにはこんな身も蓋もないことが分かるだけで十分で、この本は豚の魅力を存分に堪能させてくれた。
印象的だったのが、著者が平原を散策中に野生の豚と「目が合った」ときの話。
動物園で豚と目を合わせても、豚は人間を見慣れているため、そこにはどこも見ていないような退屈な目があるだけ。
しかし人間との接触が正に「未知との遭遇」であるような平原では、豚と人間はお互いに緊張しながら、訝しげなアイコンタクトを「対等に」交わしたという。著者が敵意のないことを示そうとニコリと笑うと、豚の目もゆっくりと笑ったそうな。
「ホンマかいな」とは思えない。「確かに豚なら笑うだろう」と思わされる。これはそういう本で、なかなか面白かった。